文化譜の誕生





 

坂上ヨウ(後の四世杵家弥七)は、「西洋音楽の楽譜のようなものが三味線音楽にあったなら、習うにしても復習にしてもどんなにか便利であろう」という思いのもと、夫の赤星国清(ピアノ・バイオリン講師)とともに、三味線楽譜の研究に努め、明治42年に「三絃楽譜」として、五線譜による三味線譜を発行しました。しかし、当時の邦楽愛好家には五線譜を理解する人が少なく失敗に終わりました。その後さらなる研究を重ね、新渡戸稲造博士の知遇を受け、6回の推敲を経た後、現在出版されている「三味線文化譜」が完成しました。四世弥七は「三味線文化譜」を備忘録として位置づけると共に、なによりも初心者にもわかりやすい点を活用して、三味線音楽を民衆化する事を理念としました。現在では三味線音楽の主流楽譜として、長唄のみならず、様々な分野に広く用いられています。



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